この10年間で始めた趣味の中で、写真は一番の当たりだった。ひとりで黙々と打ち込んで悦に入る趣味として、写真は自分にあっているとしみじみ感じている。
仕事では抽象的なアイデアやものごとを言語化したり構造化したりして理解しやすくすることを生業としているので、写真はそれとまったく逆の自由な表現や創作として、働かせる脳みそのバランスをとってくれているのかもしれない。
同じように趣味であるギターと比べると、写真は人に見せることに全く抵抗がない。
そもそも写真の上手い下手や良し悪しの基準がよくわかっていない。だからたくさん撮って、そこから選んで、現像して、インターネットにそっと漂流させる、そんな一連の所作を黙々と繰り返すことができる。
写真は、自分が持っているつまらない自己顕示欲から自由になれる創作だ。
(なんて言葉による理由付けをしてしまうのが職業病なんですが)
こと京都に住んでいるとシャッターを切りたくなる瞬間に恵まれている。
お寺や神社はもちろん、街角のちょっとした変化や脈々と受け継がれている行事など、そのときの自分や社会というファインダーを通して記録したものを、1年後5年後10年後の同じ風景を撮った写真と見比べるのも面白い。
ずっと同じ場所に住んでいても写真は人生通して楽しめそうだ。
僕にとっての2020年は不惑という迷いのトンネルから抜けることができた1年だった。世界中の普通が大きく変化するのを他所に、家庭を楽しみ、社会の一員であることを噛み締めている。
世界中の普通が大きく変化している中で好きな街であたりまえを謳歌できている贅沢。
ずっと続くなんて思ってはいないけど、ここにいれば次のトンネルもまた、やり過ごせるだろうと思っている。
僕と同じように京都の写真を撮ることが好きな人がいる。
彼は東京で働いていた時代の尊敬する同僚だけど、しばらく京都のすごく近所に住んでいたことがあって。それは本当に単なる偶然だったんだけど、そんな偶然が起こって自分が大好きな京都でご近所さんになれたことがとてもうれしかった。
彼は新しいものの見方や伝え方をストイックに追求する求道者で、僕たちが大好きだったインターネットでは彼の仕事である言葉をたくさん見つけることができる。
そんな彼の撮った写真、特に京都の写真を見るのが密かに好きだ。
彼がインターネットにそっと漂流させる写真はたいていの場合ノーテキストで、仕事での印象とは対照的。そしていつもどこか凛としていてロマンティック。
彼のカメラに寄って切り取られた見慣れた京都の風景を見るとき、ファインダーの周りの風景を想像しながらテキストでは表現されない感情に思いを馳せることはとても愉しい。
もちろん、そんな恥ずかしい気持ちを面と向かって伝えたことはないんだけど。
京都に住むのは贅沢だ。
本当に。
ずっとここにいるとわからないのだけど、忙しい東京と行き来しているとよくわかる。しばらく離れていて京都に帰ってくるとなんだか泣きたくなる。悲しいのとはまた別の感情で。
いつの間にか彼はまた東京に戻っていた。
ちょっと寂しかったけど、まあそういうこともあるだろう。
またいつか戻ってくればいい。
(ちなみに僕はいまのところ3往復くらいしている)
今のところの僕は、大きく変わっている世の中を前向きに受け止めながら京都で健やかに過ごしている。とくにこのあたりはちょっと町外れなのだけど、ゆったりしていて空気もヤサイもおいしいし、山も川も近いから散歩をするだけで心の洗濯ができるからちょうどいい。
またいつか戻ってくればいい。
京都に住むのは贅沢だから。
そろそろ、あの人が撮った新しい写真が見たい。
今年の京都の冬は寒くなりそうですよ。