紅白歌合戦をなんとなく見ていたら、終わりの方で司会かアナウンサーが「2023年は少しずつ元の日常が戻ってきました!」と明るい表情で話しているのを耳にしてちょっと怖くなりました。
はて、コロナ禍以前の生活・経済・考え方・価値観に完全回復することが、私たちの願いなんだったっけ?そういえば「ニューノーマル」って言葉を聞くことはすでになくなってた2023年。
オールドノーマル派を含む全人類を納得させられるシステムをアップデートできなかったことはニューノーマル派の敗北で、パンデミックの4年間は短すぎたのか。。
年末には、同世代の元同僚がこんな話題をThreadsでシェアして同業界(IT・メディア系)の知人たちと「私たちはあまり実感がない」という会話をしているのを見ました。
40代半ばの就職氷河期の経営者が「いざこの年齢になってみても活躍してる同級生に殆ど会った事が無い。数は多いはずなのに」と言っていた
活躍とはなんぞや?オールドノーマルなものさしで測ると自分たちは負け組世代なんだろうけど、当事者としては、それを嘆いている暇があったらやりたい(できる)ことはいくらでもあるので、自分たちなりのロジックで奮い立たせながら社会とのつきあい方を確立している最中。
その中で、社会全体としてみてやはり自分の世代が(価値観バイアスなく)幸福感が低い世代なのであれば、その一員として、そんなつまらない呪縛のない側の世の中を広げて、彼らの一助となれればいいな、というくらいの使命感は持っています。
2024年は北陸での大きな震災とともにやってきました。未曾有の大災害時にインターネットが大活躍した2013年の空気感と比較すると、デジタル、インターネット、テクノロジーへのポジティブな期待感が随分希薄になったと感じています。世の中ではさんざんDX、DXと叫ばれ、実用的なAIもついに登場したというのに。
それは、首都圏から遠い「裏日本1」での災害だからなのかと穿ってみたくもなりますが、それよりも、氾濫するネット情報や、メシの種に感情増幅装置としてSNSを駆使するインフルエンサーたちにより、テクノロジーがもたらしたコミュニケーションそのものが、壮大な(ハイプ・サイクルで言う)幻滅期に来ている感じがします。
私たちは今、いよいよ、ようやく、フェードアウトしていく2010年代を見送っているのかもしれません。
情報化社会は、世の中を便利にしながら、さらなるブルシットジョブを生産することはあっても、私たちをユートピアに連れて行ってはくれないことがわかったいま、次の本命はそれを覆い隠すような「虚構を楽しむカルチャー」なのかもしれません。
例えば高額の旅行商品。オールドノーマルな価値観では衰退するしかない日本の「地方」(と都会に言われる地域)が、起死回生を狙って富裕層向けに絞り込んだ「日本らしいウケる」サービスや体験を研ぎ澄ませていった結果、それは浮世離れしたテーマパークやヴァーチャルリアリティーと同質になっていた、みたいな。
・・・というようなことをここで書くのをうかうかしてたら、愛読しているWORKSIGHTの新年のエッセイで近しいことが、わかりやすく読み応えのあるテキストで綴られていました。
さて。これからはひとつの価値観に全員が目を輝かせる時代でもありませんから、「虚構を楽しむカルチャー」は一つの極として理解ししつつも、オルタナティブ(と少なくとも自己肯定できる)な人生の楽しみ方を見つけなければ面白くありません。
自分にとってのそれは、昨年末のpostでも触れた「受け継がれてきたものを愛でて繋げていく」ことなのかなと、今のところ考えているわけです。
前掲のWORKSIGHTの記事から、かのデヴィッド・グレーバーの遺作を紹介した、希望を感じさせる一節を引用させてもらいます。(読まなきゃ)
本書が指し示すのは、人類は元から動物的でも利己的でもなく、実にヒューマニティにあふれ、協力的で、階層のない豊かな社会を構成してきたのだということである。しかもそれは遊び心に満ちた柔軟な試行錯誤のもとで生まれてきたという遊戯史観が提示される。加えて、社会変化の要因としての技術決定論や(ほとんどが男性だと想定される)特定の人物がイノベーションを実現するというイノベーター神話も退ける。
SNSプラットフォームの窮屈さからの開放を目指した「遅いインターネット」は2020年でしたが、昨年には「しずかなインターネット」なるものが出てくるなど、再び、インターネットの原点回帰を説く人がにわかに増えてきました。
年末には「クラフトインターネット」なるニューワードを使って、アテンション・エコノミーや自己顕示欲や各種のハックから解き放たれた発信の心地よさ清々しさを嬉々として語る、メディア編集者のコメントとそれに連なるフォロワーのコメントを発見。いよいよ、自分たちがすでに見つけているsubstackニュースレターや声のコミュニティLISTENのような居心地の良い小さなインターネットに、仲間が少しずつ増えそうな予感がしました。
この件についてもうかうかしてたら、ブロガーの方が書いたタイムリーな記事が出て話題になっています。
ここで説かれているのはインターネット上の「人間的な感覚」。
タイトルに"古きよき"なんて書いてしまったけど、要するに昔あった人のあたたかみみたいなものがあるサイトを求めてるんだろうなと。
この記事では「昔のインターネット」というムーブメントも紹介されています。記事へのコメントを見ると素のHTMLで書くとかプラットフォームに依らないとか、技巧的なことも話されていますが、自分としてはそういったことよりも、書き手の態度とその結果できる読み手との関係性が、「クラフトインターネット」「しずかなインターネット」的か否かを判断するのかなと考えています。
一方で「クラフト」という言葉からは、昨年少し話題になったここ数年のクラフトビールブームの結果とそれに対する醸造元の苦悩を呈したこちらの記事を想起。
この一連のブログ投稿で何度となく登場する「クラフト」という言葉。一種流行語のようになり、巷でよく耳や目にすることも増え、商品価値も高まっているように感じます。元はものづくり、職人の分野でよく使われる言葉でしたが、昨今ではやはりアメリカ発のクラフトビールムーブメントがこの流れを大きく変えました。 「クラフトビール」ブーム以降、クラフトジンなどのスピリッツ系、さらには「クラフトコーラ」や「クラフトジンジャーエール」のようなソフトドリンクも幅広く販売されるようになりました。 ビールを含むこれらのほとんどは、大手とは言わないまでも大規模に事業化されていることが多く、大きな設備も必要であることを考えると、もはや”手作り”という意味合いよりも、天然素材や厳選された素材を使用することを強調しているように思われます。
国内のクラフトビール業界が抱えるジレンマ – Kyoto Brewing Co. - Online Store
市場があるところにはブームがある以上、言葉が持つみずみずしさには賞味期限があると思った次第です。
閑話休題。
あなたの好きな書き手やメディアはどんな態度を表明していますか?
「愉快な気分になりますが、役に立つことはありません」とアバウトページに堂々と書いているサイトですが、デイリーポータルZは必要なものだと私は確信しています。
読んだ人の気分を変えて、もっとふざけていい世界にするサイトです。
「もっとふざけていい世界にする」これ、あらためて、自分には最高のビジョンだと思っています。
・・・ということで、話は散らかりましたが、今年はいろいろな意味において「間(はざま)」の年になるような気がしています。ひとつのオールドノーマルと複数のニューノーマルの間での綱引きを楽しみに見守りたいと思います。
あえて。北陸出身の自分が子供の頃は自虐的にもよく言われていました。改めて今の気分でいうと、表より裏の方が楽しみは多そうですよね。