7年ぶりに愛用のデジタル一眼レフカメラを最新のものに買い替えました。
それを散歩や1日旅行に持ち出してパシャパシャ撮っているうちに、今さらですが「撮って出し」の楽しさを再発見しました。
自分は、元来が「ものづくり凝り性」なので、撮ったあと発信や公開するために納得いくまで作り込みに時間をかけることを全く厭わないアマチュアカメラマンです。
具体的には大量のRAW画像ファイルをAdobe Lightroomで読み込んでちまちま現像する作業。自分が撮った写真には下手でも一定の愛おしさがあるので、削除するには惜しく、たくさん撮れば撮るほど現像する時間がかかってしまいがちで。
それがカメラ性能が飛躍的にあがることで、「良い絵」が撮れる打率があがり、さらに大量の写真からいい感じの数枚を選んでインターネット上に「放つ」作業もなめらかにできるようになったので、後工程に頼らないその場の「撮って出し」を楽しむのもいいかも、と思うようになったのです。
少しくらい斜めっていても、すべての対象物にピントがちゃんと合っていなくても、この写真は「その場の空気感」がよい。編集したらその空気がなくなってしまう、みたいな諦めも含めた考え方。
カメラというのは元来、どれだけ巧くなっても偶然性によろこぶ余地が多い表現ですよね。
写真を鑑賞する身としても、友人のカメラマンの撮って出しをみながら「この人はこの写真を撮るとき、何を考えていたんだろう」と想像するのが楽しいものです。
3年前には感極まってこんなポエムも書いていました。
技術的には理論的には拙くても、その写真が切り出された瞬間の空気・雰囲気・感情・シチュエーション、などの情報を載せるのならノー編集の撮って出しの方が、自然かつ、簡単。
音楽の世界では「一発録り」「ファーストテイク」という言葉があります。写真と同じく音楽も、ライブではなく非同期で鑑賞することができる表現で、クオリティを追求するのなら、編集していくらでも作りこむことができるのに、「一発録り」「ファーストテイク」で受け手の心を震わせることができるマジックがあります。
(THE FIRST TAKEが「ファーストテイク」ではなかったことを知って、騙されたと感じる人が多かったのはそこにマジックがあるからと信じているからでしょう)
少し話はずれますが、1970年代後半からの「パンクロック」ムーブメントは、複雑なコード進行やメロディ構成で大仰化するバンド音楽へのアンチテーゼ、カタルシスがひとつの原動力でした。
後加工することへの疑問は、アーティストによる芸術表現に限りません。いまは写真や動画をあたりまえに飾ったり盛ったりすることへの違和感から生まれた Be Real なんていうソーシャルメディアが支持される時代です。
シンプルな道具でシンプルなプロセス(できればノープロセス)で届けられる表現には感情を揺さぶる見えない力があります。
「撮って出し」がみんなを幸せにすることの本質は、表現・発信の総量が増えることではなく、「表現者・発信者が増えること」じゃないでしょうか。
一部のプロ発信者の表現を、たくさんの鑑賞者がありがたがる世界よりも、みんなが自分なりのやり方と道具で発信して、おたがいに感想を言いあったり、影響をうけあったりする世界のほうが自分は好きです。
初期のInstagram はそれをやってのけた偉大な存在でした。(なんでもござれの今のインスタグラムを想像しないで!)
ポラロイドカメラをモチーフとして、レトロカメラのフィルターを通して、iPhoneさえあれば誰でもインターネット上にエモい写真を発信できるシンプルなアプリが、(カメラ愛好派からしたら邪道と思われながらも)写真で発信・表現する人の数を増やし、「表現者であり鑑賞者である」世界観を作ったことはInstagramの大きな功績だったな、と今振り返ると気づかされるのです。
(そういう意味では、140文字で誰でも参加して発信できるTwitterは利用者数を増やした結果、表現そのものに芸術性を帯びさせるプラットフォームというよりは迂闊に変なことを言えない暗い森になったと思っているし、元祖・誰でも発信者になれるイノベーションであったブログも、一部の発信者と大多数の読者といいう構造に落ち着きました。容易に後編集や切り取りが可能なテキスト表現に「撮って出し」の精神を帯びさせることは難しいですね🤔)
・・・と、ここまでがTLDRな前フリ。
いま、「撮って出し」の良さを再発見したことをきっかけに音声(肉声)の「録って出し」について考えています。ポッドキャストのことです。
ポッドキャストの音声表現が、撮って出しの写真のようにその場の空気やシチュエーションを封じ込めたまま、一発録りの音楽のように粗粗しさが感情にたまらなく訴えて、Instagramのように限りなく手軽に収録できる。その結果、発信者と視聴者の境目が溶け合うような、そんな「小さな世界」のブレイクスルーが起こる直前まで来ている感覚があります。
実のところ「ポッドキャスト」「番組」という用語が、あまりよくないですよね。青春時代に聞いていたラジオに憧れて、自分のオリジナルの番組を作って、よい機材で良い音質を追求して、良い編集で視聴者を唸らせたい、そんなモチベーションで作られる発信は、それこそ、一眼レフでRAW現像する営みと同種の制作表現でしょう。
世の中に何かを発信したいわけじゃないけど誰かには聞いてほしい、何人かが聞いていれば十分に満たされて小さく長く続けることができる。そんな動機による表現を悪意はなくても阻んでしまうハードルがポッドキャストにはありました。(自分も最近まで阻まれていました)
究極は、視聴者よりも発信者が多いくらいの「場」。そこに集まる人がみんな発信者でもあり熱心な視聴者でもあれば、楽しく続けることと視聴者数のグロースはそれほど相関しないんじゃないかなと妄想するのです。
(もちろん、そのひとつ山を越えた先には、たくさんの視聴者を獲得するためにクオリティや編集を切磋琢磨し合うようなスポーツ性にモチベーションを感じる発信者たちによる「番組」もあって、地続きでアクセスできます。)
そんな自分の根底にあるのは、大多数に支持されるポピュラーな加工品よりも、身近な人が作る手触りや息遣いが感じられるモノに、可視化できる合理性や価値を超えた愛着を感じる、という考え方。こういった価値観にフィットする商品や商売や道具が支持される世の中になってほしい。
・・・って願うのはおこがましくて、せめてそういった営みが駆逐されずに選択肢としてそこにある世界であってほしい、と控えめに願うばかりなのです。
余談
このような話をLISTENの録って出しエピソードで話してみたら、数少ないリスナーさんから「温泉でいえば、源泉掛け流し、みたいなものですね」とコメントをもらいました。その瞬間はなるほど!と膝を打ったんだけど、よくよく考えるとどうなんだろう🤔
みなさんの連想する「録って出し」と「そうじゃないもの」の喩え、あればコメントで教えてください。僕が思いついたものも含めて、ここに追記していきます。
「源泉かけ流し温泉」と「加温・加水温泉」
「趣味で作る無施肥無農薬ヤサイ」と「専業農家に化学的にコントロールされて育った野菜」
「プロゴルファー猿」と「一般的なゴルフプレイヤー」