それ「◯◯◯でいいやん」
という批評は新しいWebサービスやアプリが出てきたときの決まり文句。
100%既視感のない新しい機能、新しいUI、新しい体験ができるものなどそうそう出て来ることはありません。そのアプリの目的(ジョブ)は既存のアプリを工夫すればだいたい達成できます。
「いや、こっちのほうがUIが洗練されていて合理的で使いやすいから」
それはごもっとも。CACOOからmiroにスイッチした理由はこれだったなあ。
「いや、こっちのほうが同じアカウントで使えて経済的だから」
これもよくある。Amazon Photoの読み込みの遅さを我慢する理由。規制前夜のプラットフォーマーの「数の経済」が最大限に効いている今は、なおさらその力学には抗えない。
「でも、新しいサービスの方がいちからやり直すききっかけになるから」
ことSNSにおいてはこの理由も成立します。言い変えるとソーシャルグラフの作り直し。
"暗い森になりつつあるインターネット"
劉慈欣の話題の『三体』と「暗い森」になりつつあるインターネット - YAMDAS現更新履歴
先日、こちらのブログを読んで以来、身の回りのいろんな符牒が合ってしまって、狂騒の2010年代、特にSNSの終焉を感じています。例えば、、
昨年末、とても悲しい出来事を知りました。だけどつながっているはずのソーシャルグラフからそれを知ることができませんでした。アクティブなユーザーのことはこれでもかと繋いでくるくせに、そこにいない人のことは何もわからないSNS。インターネットの無力さを感じました。
昨年(ようやく)結婚をしたんだけどいろんな交流関係を包含しているTwitterやFacebookで報告する気にならなかった。ブログには書けるのに。一方で人に会う機会も激減して年賀状も途絶えた今、伝えておきたい人に伝えられないまま1年が経っています。まあこれはひとそれぞれですが。
ある程度転職を重ねると、何気ないこと言おうとしたとき「誰かがあの件と絡めて気にする可能性がゼロではないからまあ、やめとくか」ってなりがち
「暗い森」理論とは、三体IIのネタバレを避けつつざっくり言うと「皆がそこにいるはずなのに危なっかしいのを避けて息を潜めるようになること」。SF物語内での定理を今日のインターネットに喩えたことは言い得て妙で、SNS、ソーシャルグラフでがんじがらめになったインターネットの薄気味悪い一面をよく表しています。
三体Ⅱ 黒暗森林(上) | 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功 | 中国の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon
最近までそれは自分たち側の変化(みんな分別のある大人になった)によるものだと思ってたけど、そこにはSNSの負の、腐の?成熟もあったのかもしれません。
SNSの負の側面というと、ドキュメンタリー「監視資本主義」で描かれたようなインフォデミックに焦点があたっていますが、自分にとっては暗い森を成立させる集団心理の方がよっぽど恐ろしく。
ドキュメンタリー『監視資本主義』は、ソーシャルメディアの問題をあまりに単純化している:映画レヴュー | WIRED.jp
個人データの運用問題や暴走する政治家のアカウントをBANできるか問題などは、プラットフォームの公共性を認めて政治的にルールを制定すれば改善するだろうけど(そのプロセスの難易度は置いといて)、暗い森理論は人間の本能なのでなかなか根が深いです。
SNS疲れから失望へ。
TwitterもFacebookも、2010年代のSNSは暗い森になってしまうのでしょうか。
もともとこのブログでは「暗い森」になったSNSについてひたすら嘆くつもりで書き始めたところ、"例のアプリ"が日本で俄に流行りだしたので、冒頭の部分とここから先を書き足すことにしました。
"例のアプリ"は新しい要素もてんこ盛りだけど、ソーシャルグラフに関してはオープンにフォロー/アンフォローできるオーソドックスなものです。そんな中で自分はいま、新しいSNSを評価するためにインフルエンサーや一方的に知っている業界人やインフルエンサー、(新興SNSでありがちな)降臨した芸能人たちをフォローするのをぐっとこらえています。
2010年代に少しだけ学んだことは、SNSはどんなソーシャルグラフを作るかによって見える景色が全然変わってくること。
久々にやってきた新しいSNS。ここで違うソーシャルグラフをデザインすれば、この新しいSNSの違う用法、嗜み方が見えてくるかもしれないし、ここから見える景色から学べることはあるかもしれないと思っています。暗い森に陥らない適度な規模のソーシャルグラフからやり直しができれば2020年代の違ったSNSがまた見れるのかもしれない。
ところで。ソーシャルグラフを使ったSNSが健全なパブリックイメージを保つためには
A: 文字通り純粋な友達との交流に使っているユーザーのアクティビティ
B: ビジネスや行動変容や対立を促すために利用するユーザーのアクティビティ
C: プラットフォームによるマネタイズのための力
この3者のバランスが大事なのだと感じています。
どのSNSも投資資金で走るグロースの初期は純粋なユーザーのコミュニケーションにフォーカスできる。でもユーザー規模も経済も大きくなるにつれて、Twitterは対立を煽る勢力や分断された個人の発言が悪目立ちする醜いSNSに、Facebookは行き過ぎたマネタイズのさじ加減によって嫌われるSNSになってしまいました。
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だから、アメリカの起業家投資家界隈で始まりTwitter型のソーシャルグラフを持ち、”Fear of Missing Out”を強烈に煽ってユーザーの可処分時間を蝕みつくそうとする(本当によくできた)例のアプリが様々な思惑(おもわく)のアクティビティによって満たされることは今でも容易に想像がつくのですが、、
「静かな海」「遅いインターネット」に心惹かれている自分としては、せっかくの新興SNSがもてはやされるこの機会に、丁寧にソーシャルグラフをメンテナンスしながらガツガツしない他愛のない心休まるコミュニケーションができる場所を探ってみようと考えています。
SNSなんて目の前のお仕事をちゃんとやって、衣食住の生活を楽しんで、その隙間の時間をどう過ごすかという人生の一部にすぎないのだから。それ以上の存在である「何か」を目指すことが禁忌なのではないか。と最近は感じています。
・・・なーんて考えながら例のアプリを見ていたら「三国志で好きな武将や好きなシーンを雑談します」というroomが上がってきたw
そうそう、こういうのでいいんだよ。
2024年3月追記)続編はこちら